小档案
ANCHANG (あんちゃん):Vo, G、愛媛県出身。
KEN'ICHI (けんいち):Dr、愛媛県出身。
SHINGO☆ (しんごすたー):Ba、沖縄県石垣島出身。
小简介
来自于日本的重金属摇滚乐队。
96年、97年无所属时代起,就举办了各式各样的LIVE EVENT,演唱会参加人数成倍增长。知名度急剧上升,并达到了每人带动350人的纪录。 而后,乐队又精力充沛地巡回于全国各地,使得地方性人气也与日俱增。97年春天,发行首张现场实况CD和VIDEO。无论是CD还是VIDEO,全国各地的订单蜂拥而至。双双销售一空。
1998年4月,签约东芝EMI。发行了首张单曲唱片「HANABI- la大回转」,发售后的98年春天,举办了全国巡回演出,在全国各地连续发生门票抢购一空的情况。而且,各种杂志也纷纷连载成员相关报道,SEXMACHINEGUNS的人气以惊人的速度持续暴涨。8月涉谷ON AIR EAST的现场演唱会更是门票发售日当日SOLD OUT。9月发行了第二张单曲唱片「BURN—让爱的火焰燃烧」。获得 TOWER RECORDS 涉谷店单曲销量第一位。10月,大众期待的首张大碟「SEX MACHINEGUN」正式发行。98年秋天的现场演唱会,包括日比谷野外音乐堂,红坂 BLITZ 和川崎 CLUB CITTA’等等,一直从10月连续到了第二年。签约后1年间就成功举办了超过62场的现场演唱会。
99年2月,发行了第三张单曲唱片「TEKKEN 2」。从4月开始的99年度巡回演唱会,包括涉谷礼堂的追加公演20场,又在全国各地掀起SOLD OUT热潮。在持续的LIVE中, 4月又发行了第四张单曲唱片「柑桔之歌/ illusion city」,更进一步同时发行限定版附带录影带的8cmCD「HELLthy Set M」。7月,作为尝试,SEX MACHINEGUNS在大阪 MUSE HALL(400人)和涉谷ON AIR WEST(600人)举办了男子限定演唱会,在梅田HEAT BEAT(1000人) 以及涉谷ON AIR EAST(1200人)举办了女子限定演唱会,全体会场门票都即日 SOLD OUT。之后9月,在川崎 CLUB CITTA’的 2 DAYS门票也即日SOLD OUT ,涉谷礼堂的 2 DAYS更是门票发售前预约一空。然而这个时候,鼓手Speed Star Sypan Joe 因为腰部疾病恶化,无奈退出(令人惋惜)。之后,第五张单曲唱片「ONIGUNSOW」于10月发行。11月第二张大碟「MADE IN JAPAN」引发了首次全场大厅音乐会形式的巡回公演。2000 年1月,巡回演出的最后一天,日本武士道馆公演的门票竟然在发售后20分钟之内被一抢而空。4月,于后乐园大厅(东京),BIG CAT (大阪) , Bottom Line (名古屋) 等各会场分别举行,等2 DAYS演出,三会场,两天都是门票即日SOLD OUT。5月发行了第六张单曲唱片「爱才是全部」,2个月的LIVE TOUR中,乐队还精神饱满地参加了电视台的音乐节目演出。为此,乐队的知名度在全国范围更进一步上升。6月,VIDEO CLIP集「VIDEO SEX」发行,首次荣获ORICON排行榜榜首。 8月,举行了两万人的 露天音乐会(东京 BIGSIDE 特设舞台)。音乐会的要点版VHS 「紧急!在荒郊野外」于9月发售。接着于11月,收集了 BEST LIVE TAKE 的VHS和DVD「SM SHOW」发行了。作为 LIVE BAND 的 SEXMACHINEGUNS ,为了拉下 2000 年的帷幕,举行了倒计时音乐会< 年复一年蛇 METAL>(东京BIGSIDE)。现在这种倒计时音乐会已经成为年终的惯例了。
音楽性としては、ジャーマンメタルとスラッシュメタル、1980年代のジャパニーズ・メタルの要素を併せ持つ他、楽曲によってはデスボイスやグロウルに近いヴォーカルのようにモダンなメタルの要素も存在している。様々なHR/HM系バンドの楽曲のオマージュと考えられる曲が数多く存在し、中にはメロディやリフを原形に近しい形で拝借したものも少なくない。このことは、ほとんどの作曲を担当するANCHANGが雑誌のインタビュー等で明言している。
メジャーデビュー前後の頃には「ビジュアル系ヘヴィメタルバンド」として売り込んでいたが、あくまでそれはライブの観客動員を増やすための戦略だったようである。インディーズ第2期~第3期の頃はちょうどヴィジュアル系バンドが全盛期であり、都内のライヴハウスに出演依頼を申し込んだ際に「今更メタルなの?」と門前払いに等しい扱いを受けたことがあったと後にANCHANGが語っており、ヴィジュアル系を名乗るのは演奏場所を確保するための苦肉の策であった。 だが、アルバムの発売枚数が少ないもののライブの動員数が多く、メジャーデビュー1年半で日本武道館でのライブを実現させている。
楽曲のおもしろさ(ファミレス店員と客のやり取りを戯画化した「ファミレス・ボンバー」、ANCHANGの愛媛みかんへの『愛』を高らかに歌い上げた「みかんのうた」等)とライブパフォーマンスが有名で、演奏時間よりトークが長いという伝説を残した。インディーズ時代のイベントライブでは、他のバンドを食うバンドとして恐れられており、当時は“;対バンキラー”;と呼ばれていた。
SEX MACHINEGUNSのファンの事を「マシンガー」と呼ぶ。
音楽番組に出演する際にも登場するやいなやハイテンションに雄叫びを上げたり、トークにおいて芸人的なエクスキューズを多分に織り込んだりといったギャグに近いキャラクターも特徴的だった。SEX MACHINEGUNSのこうしたキャラに対して「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」MCのダウンタウンや「LOVE LOVEあいしてる」および「堂本兄弟」MCのKinKi Kidsは何かとついて行きづらそうにしていたが、「うたばん」MCの石橋貴明は「新しいコントグループ」と表現し、「ミュージックステーション」MCのタモリはSEX MACHINEGUNSのメンバーを「根はまともで大人しい人たち」と評していた。(いずれも第3期マシンガンズ)
大事件
ギターのANCHANG(安藤弘司)が1989年、鹿児島県の第一工業大学に在学中、大学祭への出場のために結成したバンドがルーツに成っている。このときのボーカルは、パンクバンドのボーカルだったため、メタルとパンクが折衷している状態であった。その後、九州地方を中心に活動を続けるが、ANCHANGの就職による上京を機に解散。
ANCHANGはサラリーマンになってから、同名のバンドを再結成しメンバーに大田宏(後のNoisy)をボーカリストとして迎え入れる。しかしフザけすぎてすぐにクビになり、ANCHANGがヴォーカルを兼任する事になる。NOISYは次にギタリストとして再加入するが、またまたクビになる(実際は、NOISY自身が「キツくてもうできない」とANCHANGに電話してきたらしい)。
1996年、ANCHANGの手伝っていたヴィジュアル系バンドVICTIM OF FAITHが解散し、そのギタリストだったSussy(古屋正仁)が加入。またNOISYがベーシストとして再々加入し、今のバンドの原形が固まる。この年の11月にはBSヤングバトルに出場して「みかんのうた」を演奏するも、受賞はならなかった。この時ポルノグラフィティも出場していたが、こちらも受賞はならず。その後にバラエティ番組「大発見!恐怖の法則」に「ヘビメタバンド」として少し出演する。内容は「ヘビメタバンドをやっている人は痩せている」という旨の「法則」を検証するという企画であり(結果は当時のドラム以外に「法則」は当てはまった)、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に出ていた頃のXのようなあからさまな色物、変人集団扱いされていた(同番組中でレギュラーであった加藤紀子に「食べられない(売れない)から痩せているんでしょ?」とあながち的外れでないだけにあんまりな暴言を吐かれていた)。
1997年には、オーディションでドラムにSPEED STAR SYPAN JOE(JOE・上野浩二)が加入し、デビュー時のラインナップとなる。ちなみに、後にJOEの後任ドラマーとなるCLUTCH.J.HIMAWARI(神吉淳)もこの時のオーディションに参加。
1998年、シングル『HANABI-la大回転』でメジャーデビュー。デビューアルバム『SEX MACHINEGUN』がヘヴィメタル専門誌「BURRN!」にて、歌詞が余りにも「フザけ過ぎている」という判断で点数を付けられない、という理由で「?(評価不能)」と判定された。他方、楽曲や演奏面では高い評価を受けていた。
1999年に、SPEED STAR SYPAN JOEが持病の椎間板ヘルニアの悪化のため脱退(JOEはその後リハビリを経て、2001年にはDASEINのドラマーとして復活)。後任にCLUTCH.J.HIMAWARIが加入する。ちなみにこの名前はアクセル・ローズのパロディであり、アクセル→クラッチ、ローズ(薔薇)→ヒマワリと変換し、間に本名のイニシャルを加えたもの。
2001年には、音楽的方向性の相違を理由にSUSSYが脱退し、後任としてCIRCUIT.V.PANTHER(八尋義和)が加入。
2003年、個人の様々な意見の違いを理由に解散。ANCHANGとCIRCUIT.V.PANTHERは、同年それぞれソロデビュー。リズム隊の二人は元ΛuciferのYUKIと共にDUSTAR-3を結成し、2004年にデビュー。
2004年、ANCHANG、CIRCUIT.V.PANTHER、SAMURAI.W.KENJILAW(元cali≠gariの村井研次郎)、SPEED STAR SYPAN JOEの4人で再結成。アルバム2枚、シングル3枚、DVD2枚を発表。ANCHANGを除いた3人によるバンド内のインストバンドとしてELLEGUNSも結成される。メジャー第4期はほぼヴィジュアル系バンド時代の面影は無くなり、さらにNOISYが抜けた影響か、コミカルな要素も抑え目になり、硬派なヘヴィメタルバンドとしてのイメージを強調していた。
2006年3月20日、『ZARIGANI CHOP AMERICANA』ツアー 川崎クラブチッタ公演アンコール時のMCにてANCHANGより活動休止が発表される。翌21日、公式ページでも正式に活動休止が発表される。その後、バンドから完全に脱退したSPEED STAR SYPAN JOE、CIRCUIT.V.PANTHER、SAMURAI.W.KENJILAWの3人は、ELLEGUNSと同じメンバー構成でJ-P-K PROJECTを結成。その後バンド名をCYCLEに変更し、本格的な活動を始める。ANCHANGはソロ活動を経てメンバー募集を開始する。
2007年10月26日、新メンバーとしてRYOTATSUとKEN'ICHIの加入が発表される。
2008年6月28日、『全国大会』ツアーでサポートベーシストであったSHINGO☆が、ツアーファイナル公演(渋谷O-EAST)にて正式加入。同日、RYOTATSUはイベリコ・モジャ・マルムスティーンに改名(通称モジャ丸)。
2008年8月2日、イベリコ・モジャ・マルムスティーンが失踪・家庭の事情により脱退、公式HPに発表された。しばらくは後任を探さず、サポートギタリストを加えライヴ活動を行う予定。8月中のライヴは、サポートメンバーとしてSUSSYを急遽起用(一時的復帰)、イベント4公演を乗り切った。
2008年12月8日、ANCHANGが自身のブログでEMIミュージックジャパンとの契約満了を発表。今後はインディーズで活動していくことを発表した。