谷山浩子的吉他谱
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小档案
谷山 浩子(たにやま ひろこ、1956年8月29日 - )は、シンガーソングライター。
本名、中西 浩子(なかにし ひろこ)。東京都杉並区高円寺生まれ、神奈川県横浜市出身。ヤマハミュージックアーティスト所属(2007年8月1日にヤマハ音楽振興会から移籍)。現在のレコード会社はヤマハミュージックコミュニケーションズ。
大事件
中学校時代から曲の持ち込みを始め、キングレコードでベイビーブラザーズ(後のフィンガー5)のシングル『白い天使』(1970年11月20日発売)のB面に『僕たちの秘密』が採用される。1972年4月25日、アルバム『静かでいいな~谷山浩子15の世界~』とシングル『銀河系はやっぱりまわってる』をリリース(1度目のデビュー)。その年、NHKの『ステージ101』のレギュラーとなる。1974年、第7回ポプコンつま恋本選で『お早ようございますの帽子屋さん』が入選し、翌1975年2月10日にキャニオン?レコード(現?ポニーキャニオン)からシングルリリース(2度目のデビュー)。そして、1977年、シングル『河のほとりに』で正式にデビュー。2000年にヤマハによってヤマハミュージックコミュニケーションズが設立された際、中島みゆきらと共に同社へと移籍する。
なお、1997年4月から約2年間、所属事務所がヤマハ音楽振興会の関連会社であった株式会社常磐(ファンクラブの運営、物販事業など営利事業を行っていた)に移籍していた。
『まっくら森の歌』、『しっぽのきもち』、『恋するニワトリ』、『風になれ ~みどりのために~』、『ねこの森には帰れない』など、名前よりも作品の方が有名なシンガーソングライターである。音楽?小説共に、独特の幻想的作風を持つ。同タイトルの詞と本を出していることが多い。1980年代からNHKの『みんなのうた』で曲が採用され始め、『恋するニワトリ』、『しっぽのきもち』、『まっくら森の歌』、『おはようクレヨン』、『そっくりハウス』等が放送された。これらの作品を幼少時から視聴していた人々からの根強い人気もあり(特に『まっくら森の歌』は人気投票でも常時10位以内に入るほど人気が高い)、現在においても再放送されることがある。
1987年から2001年までは、一般の個人?団体が主催者となる『101人コンサート』を全国各地で行った。収容人数が100~300人程度の「電気と屋根がある」場所ならどこでもというコンセプトで、シンセサイザーの石井AQとの2人で行われていた。これのスペシャルバージョンが毎年秋(1994年 - 2001年は隔年)青山円形劇場で行われていた。これらを含め、14年間で300公演以上が行われた。 2002年以降は、青山円形劇場公演に代わるものとして『猫森集会』が新宿スペース?ゼロで公演され、全国をまわるピアノソロツアー「谷山浩子ソロライブ」が始まっている。なお、従来ファンクラブのイベントの名称として『ねこ森集会』が使われていたが、こちらは『ねこ森集会 Limited』と改称している。
また、初代PC-8001の時代からパソコンに触れているというパソコンマニアとしても知られており、パソコン通信で「谷山浩子」のハンドルで発言していたところ、「谷山浩子の名を騙るファン」と勘違いされたというエピソードがある。また、『Oh!FM』→『Oh!FM TOWNS』(日本ソフトバンク、廃刊)、『PCfan』(毎日コミュニケーションズ)など複数のパソコン誌でエッセイを長期にわたり連載していた。1989年には『コンプティーク?ソーサリアンシナリオコンテスト』の審査員、1992年には、『パソコンアート?コンテスト』(主催:日本電気)の審査員を務めたことがある。
当人の知的好奇心旺盛な性格、ならびに長年パソコンに触れていたことなどから、理工系の学生や理工系の仕事に携わるファンが多い。
『みんなのうた』や『おかあさんといっしょ』へ楽曲を多く提供していることから、一般的には幻想的な世界や童話をモチーフにした歌の印象が強い。一方で失恋、憎悪、悪夢、および死をテーマに、あるいはイメージさせるネガティブな歌も意外と多い(『あたしの恋人』、『紙ひこうき』、『ROLLING DOWN』、『鏡』、『光る馬車』、『ゆりかごの歌』など多数。特に初期の楽曲は、いわゆる「暗い」というイメージのものが多い)。なお、本人は『ゆりかごの歌』の歌詞で、初めて本当の意味で「殺す」という言葉を使ったと述べている。
かつては「23歳から年齢を折り返して、18歳になったらまた増えるようにしている」と発言していた。この方式で計算すると、2006年で7度目の20歳になる。