高峰三枝子的吉他谱
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小简介
1918年(大正7年)12月2日、東京府芝区露月町に生まれる。実父?高峰筑風は、高峰流筑前琵琶の宗家として当時絶大な人気を誇っていた。東洋英和女学院を卒業した1936年(昭和11年)に、筑風が急死。一家を養うために、周囲の勧めもあり映画界入りを決意。帝国劇場の専務の紹介で松竹に入社し、同年に公開された大船映画『母を尋ねて』で女優としてデビューした。
理知的で気品のある美貌はたちまち人気を集め、翌年には松竹三羽烏と呼ばれた人気二枚目俳優?上原謙、佐野周二、佐分利信を相手にマドンナ役を演じた『婚約三羽烏』が公開されている。同じ1937年(昭和12年)の年末に公開された浜本広の小説を映画化した『浅草の灯』で演じた浅草オペラの踊り子役で、歌を口ずさむシーンが話題となり、コロムビアがレコード歌手としてスカウト。翌13年、映画『蛍の光』の主題歌「蛍の光」を桑野通子、高杉早苗と吹き込み、レコードデビュー。続いて映画『宵待草』主題歌の「宵待草」がヒット。これに気を良くした松竹とコロムビアは合同で音楽映画『純情二重奏』を製作し、映画と並び霧島昇と歌った主題歌が大ヒットすると、歌う映画女優としての地位を確立した。
映画における活躍も続き、1939年(昭和14年)、吉村公三郎監督による『暖流』で気取らない名門の令嬢役をこなし、女優としての知名度をさらに高めた作品となった。『信子』『戸田家の兄妹』『男への条件』『高原の月』と主演映画はいずれもヒット作品となり、松竹の看板スターとなっていった。一方、レコード歌手としても1940年(昭和15年)には「湖畔の宿」、17年には「南の花嫁さん」を映画とは無関係にヒットさせている。
1946年(昭和21年)10月には8歳年上の実業家鈴木健之と結婚し一子清貴をもうける。戦後は、レコード歌手としての実績を活かした音楽映画をシリーズ化した作品『懐しのブルース』『別れのタンゴ』『想い出のボレロ』『情熱のルムバ』が主題歌と共にヒット。『待ちぼうけの女』では女優としての新しい一面に挑戦し、『今ひとたびの』『リラの花忘れじ』『自由学校』など、作品にも恵まれて第一線の女優として人気を誇った。私生活では1954年(昭和29年)に離婚。その際の様々な心労から1956年(昭和31年)に声帯が凹むという奇病に罹り、ステージで声が出なくなったことをきっかけに歌手活動から遠ざかった。女優としても年齢に相応な役柄が多くなってきたが、『点と線』『好人好日』など松竹以外の大映や東映にも出演し、その存在感を示している。
1966年(昭和41年)、11年振りに公の場で歌ったところ声が戻っていることがわかり、藤山一郎や服部良一らの勧めもあって東京12チャンネルのテレビ番組「歌謡百年」に出演し大反響となった。「高峰三枝子カムバック」と報道されるほどの人気となり、1967年(昭和42年)には自身のヒット曲をステレオで再録音したLPを発売し、30万枚以上を売り上げる。
また、テレビ時代に合わせ、1968年(昭和43年)から女優を起用する初めての試みであった「3時のあなた」の司会に就任。高峰の落ち着いた司会ぶりと気さくな人柄が好評で、当初の予定を大幅に延長し、1973年(昭和48年)5月まで5年1ヶ月司会を務める。その間にマレーネ?ディートリッヒのショウを見たことが動機となって、1969年(昭和44年)、日生劇場で「高峰三枝子リサイタル」を開催。芸能生活35年を記念したリサイタルも1972年(昭和47年)に行い、1975年(昭和50年)、1983年(昭和58年)、1986年(昭和61年)には「全国縦断リサイタル」で往年のファンの要望に応えた。
1976年(昭和51年)には『犬神家の一族』(市川崑監督)での演技が高く評価され、1976年度ブルーリボン助演女優賞を受賞。女優として初めて栄誉に浴した。1981年(昭和56年)からは、『懐しのブルース』の相手役だった上原謙と共演した国鉄(現?JR)の「フルムーン」のCMに出演。夫役の上原と二人で温泉で入浴するシーンは話題となった。
1985年(昭和60年)に紫綬褒章を受章し、同年10月30日の園遊会に招待される。1986年(昭和61年)12月、岐阜県明智町(現?恵那市)に開設された「日本大正村」初代村長に就任。平成に入っても新宿コマ劇場でリサイタルを開いたり、テレビのバラエティー番組に出演するなど、活発に活動していたが、1990年(平成2年)4月18日に田園調布の自宅で脳梗塞のため倒れて、世田谷区の日産厚生病院に緊急入院。意識は混濁し、左半身は完全に麻痺状態だった。一時は意識が回復し危機を脱したという報道もあったが、5月25日に容体が急変し、5月27日に死去。71歳だった。意識が絶える瞬間まで「早く家に帰りたい」と繰り返していたという。死去後、過剰なダイエットによる怪しげな薬剤の影響ではないかと言われた(美空ひばりの死も同じ様な報道がなされた)。その死は一般紙でも大きく取り上げられ、テレビでも多数の追悼番組が放送された。没後、勲四等宝冠章が追贈された。